【油車の2人】1976年撮影

〜21美で写真展byやけくそじじいとばばあ〜 
 


 
私たち夫婦は偶然、同じ町で生まれました。

(幼い頃はお互いに全然知りませんでした


金沢の下町で、車も入れないような路地裏の
油車(あぶらぐるま)という町です。

江戸時代に行燈に使う菜種油を水車を使って絞っていたことからその名がつきました。

やけくそじじいの家はかつて油車にあり、やけくそばばあの母の実家も油車でした。

金沢の繁華街片町から入っていく竪町の奥、新竪町の裏通りに油車はあります。

郊外に引っ越しても、油車がとても懐かしく、


1976年(22歳の頃)に写真を撮りに行きました。

 

21美 会場入り口から入ってすぐ右の壁展示の様子

 




 




2024年現在の同じ場所です。

21美の写真展のあと、約50年ぶりに写真を撮りに行ってみたら、

丸岡屋さんはなくなって駐車場になっていました。

 

1976年(約50年前)には、お年寄りは日常的に着物を着ていました。

今、着物を着るのは、よそゆきの時だけになりました。



牛乳はお店で買うものではなく、牛乳配達してもらって飲むものでした。



兄妹が遊んでいるのを見て、幼い頃を思い出しました。

その頃は(1960年頃)近所に風呂屋があり、母がまとめて代金を払ってあったので、

お金も持たず、家から裸ん坊で入りにいったものでした(笑)。
 

 
 

すぐそばにあるやけくそじじいの母校、新竪町小学校の校庭の水道です。

 

      
 

今はどぼす(金沢弁でドブのこと)でおしっこをする

子どもは見かけませんが、この頃はみんな”どぼす”でしていました。

 
今年(2024年)12月に久しぶりに油車に行ってみたら

ビルだらけで、もうあの頃の様な静かな路地裏ではありませんでした。

今から思うと1976年に写真を撮っておいてよかったと思いました。

 
 

やけくそじじいが生まれた家は都市計画によって

今は大きな道路になっていました。

 
 

やけくそばばあの亡くなった母の実家は、今は駐車場になっていました。

子どもの頃、お里の裏庭から塀の外に見えたのは広大な畑でしたが、

今はビルしか見えませんでした。

60年前は、金沢の町のどまん中に畑があった時代だったということに驚きます。

 
 

かつて幼い兄妹が水遊びして遊んでいた新竪町小学校は

子どもがほとんどいない町となったため、廃校となり(統廃合)、

今は避難場所になっていて立ち入り禁止でした。

 
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