【内灘海岸と弾薬庫】
          1974年
・2020 年撮影

〜21美で写真展byやけくそじじいとばばあ〜 
 


 
1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争を受け、

砲弾の性能を検査する施設が必要になり、

内灘に米軍試射場が作られることになりました。

当時の
”内灘村”は日本海と河北潟にはさまれた静かな寒漁村でした

内灘村議会はこれに対して米軍進駐による風紀問題、

試射による環境や漁業への影響などから反対し、

北陸鉄道労組も浅野川線電車での資材搬入に対してストを行い支援し

”内灘闘争”と呼ばれる反対運動が起こりました。

試し打ちの段階でその轟音と振動、着弾音の激しさに

学校や周辺地域から非難が出ていたそうです。

内灘村民はムシロ旗を立てて県庁に押しかけ、

その運動に押され石川県議会も反対決議を議決しましたが、

米軍の要請を受けた吉田内閣は期限つき接収を決定して

弾薬庫・鉄板道路・発射場が建てられ、敷地は立ち入り禁止となり

1953年(昭和28年)に試射は開始されました。

しかし反対運動は収まるどころか、ますます激しくなり、

県の経済界まで真っ二つにした対立に発展していきました。


その年の参議院選挙で反対の井村徳二(片町の
大和デパート経営)が

賛成の林家亀次郎(
武蔵の名鉄デパート経営)を破って当選しました。

そのため、この選挙は戦艦
大和(やまと)と戦艦武蔵(むさし)の

内灘海戦とも揶揄されました。

そして1957年(昭和32年)米軍が撤収。1976年にこの写真を撮影した時には、

廃墟となっていたコンクリートの弾薬庫がまだ残っていました。

今(2024年)はもうありません。

(1日目は英語の文章を貼ってなかったのですが
あんまり外国人のお客さんが多かったので急遽作って貼りました。
スペースがなかったので一部だけですが。)

This is the Uchinada beach near Kanazawa.

It was used to be US military ammo warehouse
because of Korea War(1953-1956).

But lots of people protested against it.

That's why it is a peaceful popular beach now.

 

21美会場内の壁展示

 
 

                                            やけくそばばあ撮影
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