No.4-七つ橋渡りこの世とあの世を行ったり来たり

     〜やけくそじじいとばばあの金沢写真散歩〜 
 


 


金沢には犀川浅野川の二つの大きな川が流れています。

浅野川には古くから「七つ橋渡り」という一風変わった風習があります。

春と秋のお彼岸の中日の真夜中12時から、浅野川に架かる七つの橋を上流から下流へと

無言で後ろを振り返らず、一筆書きで渡って無病息災の願掛けをするというものです。

明治時代から始まったとされています。

七は仏教にとって、とても大事な数です。

この世から三途の川を渡るとあの世。

つまり橋の両岸を行ったり来たりすることで、この世とあの世を行ったり来たりする……

……シュールです!

三途の川を渡る予行演習をやるということになります……楽しい!


昔、私の祖母が今の私(71歳)くらいの年齢の時に、七つ橋渡りをしたという話を聞きました。

今から45年くらい前のことです。

祖母は寝たきりになってみんなに迷惑をかけないようにという

願掛けをして七つ橋を渡りましたが、晩年認知症になりました。

いわゆる「ピンピンコロリ」を願って行う民間信仰行事です。

私はこの年になるまで、七つ橋渡りなんて全く興味がなかったのですが、

不思議なことに、祖母と同じくらいの年齢になったら、

なぜか急にそのことを思い出して自分もやってみようと思いつきました。

でも祖母のように願掛けはしません。

正直言って好奇心からやってみたいだけです。

その頃の祖母に七つ橋で会ったら、しかられますね。

私は祖母から聞いて七つ橋渡りを知っていましたが、

地元金沢でもほとんどの人は知りません。

やけくそじじい(夫)も知りませんでした。

 
七つ橋渡りの決まりごと……つまりルールですがこれが面白い!

(1)お彼岸の中日(今年2025年なら3月20日春分の日と9月23日の秋分の日)に行う
     お彼岸は先祖を供養する期間で、その中でも中日は、昼と夜の長さが同じ日です。
     昼と夜の長さが等しい日は
現世と来世の境界があいまいになるとされており、
     想いや祈りが届けやすいとされています。

(2)午前0時に渡り始めるーこちら間違いやすいのですが、9月22日の晩(23日の0時)です。
     新しい一日の瞬間から渡ることで、新しいスタートを切る意味があるのかもしれませんが、
     個人的には真夜中から渡るというのが怖い雰囲気で好きです。

(3)無言(しゃべらない)
     誰かに声をかけられても、返事はしません。
     これは具体的に想像すると、かなりむずかしいことではないでしょうか?
     一緒に歩いている人が親しみをこめて「今回、初めての参加ですか?」とか
     聞いてきたら、黙っているなんて私にできるんでしょうか???

(4)戻ったり、後ろを振り返ることは禁止
     同じ道は二度と歩きません。
     後ろを振り返らないというのは、過去の失敗や後悔にとらわれず、
     過去はすっぱり忘れて前進のみという意味なんでしょうか?……深いです。
     同じ道を歩かないのはできそうですが、後ろは振り返りそうです。

(5)七つの橋の始めと終わりには合掌して一礼
     橋に対して、敬意を示して合掌して一礼します。
     数字の七は七福神、初七日、四十九日など仏教では七が多く使われています。
     それは
生命に関わる数字が七だからと言われています。
     ニワトリは7日×3回=21日でヒナになり、七面鳥は7日×4回=28日でヒナになり、
      人間は7日×38週で生まれます。
     四十九日も初七日から七日ごとにお裁きを受け、
      来世の行き先が決まる最も重要な日とされています。

    ※ちなみに”四つ橋渡り”という七つ橋渡りのショートバージョンもあります。
     七つ橋渡りは深夜12時スタートですが、四つ橋渡りは子どもたちに風習を残すことを
     目的に、日中行われます。時間は30分くらいです。

(6)着けた新しい白い下着(パンツのことですよね)を7日間毎日洗濯し、
               和紙に包んで水引をかけてタンスの奥にしまっておく
     白いパンツは白装束のイメージかな? それなら白装束を着た方がいい?
     七つ橋渡りの日に履いた下着はその晩に洗濯するるというのはわかるんですが、
     きれいになったパンツを次の日にも、またその次の日にも洗うというのは変ですね。
     その変なところが好きです。面白いし、御利益がありそうです。
     やっぱりパンツは手洗いした方が気持ちが入りますね。洗濯機じゃね……。
     和紙で包むのは外界の穢れから遮断し、水引で結ぶことで願い事を成就するという
     お守りの意味があると思われます。そして自分が死んだ時に、それを棺桶に入れて
     もらうとあの世で役に立つ……きっと(笑)。
           
           これが金沢の水引の梅結びです。

 
 
上流から下流へ

 常盤橋→天神橋→梅の橋→浅野川大橋→中の橋→小橋→昌永橋 

一筆書きに渡ります。

 
                      ※金沢市公式ページから、とてもわかりやすいイラストをお借りしました。
                            
 
どっちからどっちへ渡るのか、非常にややこしいので

エクセルで、渡る橋を矢印で表した絵を作ってみました。


 
 

下の写真は本番で撮ったわけではありません。

明るい時とうす暗い時に2回行きました。

下見を兼ねての撮影ですので、明るくなったり暗くなったり

また明るくなったりしていますがご了承下さい。


 
 

ではリサーチ スタート!

 

@常盤橋(ときわばし)からスタート!

常盤橋は七つの橋の中で一番上流にあり、卯辰山の緑が美しい橋です。

1958年(昭和33年)に卯辰山と金沢の中心部を結ぶために架けられた橋です。

卯辰山と言えば、昔から天神橋を渡って登ったものですが、

この橋を渡っても卯辰山に登れるということですね。

金沢に71年間も住んでいて知りませんでした。

今度、ここから卯辰山に登ってみたいと思います。


さあ、橋のどちら側から渡りましょうか?

基本的にどちら側から渡ってもよくて決まりはありませんが、

絶対に同じ道を通ってはいけません。

右岸(卯辰山側)から左岸へと渡ろうと思います。

試しに反対向きに左岸から右岸へ渡ってみたらどうなるかと思ったら

道がよくないことがわかりました。右岸から左岸へ渡った方がその後の道がいいのです。

一部(天神橋から梅の橋と小橋から昌永橋の間)を除いて川を見ながら歩けます。


川の見えない道を歩くのはむずかしいと思います。



※上流から下流に向かって見た時、川の右側が右岸、左側が左岸です。
(この言い方は大切なので覚えといて下さいね)

 
 

欄干も平安時代みたいで素敵です。弁慶と義経が闘いそうです。

真っ赤じゃなく、桃色の欄干が上品で、ノスタルジックな雰囲気を醸し出しています。

 

橋の横から階段があって河原に降りることができるようになっているので降りてみます。

車が通らないので、のんびりと安心して歩けます。

左岸です。

 

河原から見るとこんな感じ。

ほとんど人も車も通らず、静かです。

 

こんな道があるとうれしいです。

でも本番の真夜中に歩けるのかどうかはわかりません。

川にジャボーンっと落ちるかもしれません。

懐中電灯必携です。

明治や大正時代は今よりもずっと暗かったはずですけど懐中電灯ってあった?

私の祖母は懐中電灯を持って行ったのでしょうか。

 
 

河原道のすぐ横に家がずっと続いていました。

こんな所に家があるなんてうらやましいです。

 
 

家から河原にすぐに行けるようにはしごがかけられています。

いいなあ……。でも逆に言うと、泥棒も入りやすいかもしれません。

 
 

2番目の橋、丸いアーチの”天神橋”が見えます。

 
 

A天神橋(ライトアップ)

大きなアーチ型の橋、天神橋です。

今度は左岸から右岸へと渡ります。

金沢の街を一望できる卯辰山への代表的な入口です。

夜、ライトアップされるのは天神橋・梅の橋・浅野川大橋・中の橋の4つです。

天神橋は1867年(江戸時代)に最後の加賀藩主の前田慶寧が架けた橋で、

現在の橋は1955年(昭和30年)に架けられました。

橋の名前は卯辰山の頂上に天神さんを祀った卯辰神社があったことに由来しています。

この橋には橋脚がありません。アーチの部分で道路を吊っている構造です。

以前あった橋が水害で流されたのでこういう構造になりました。

橋を渡った右岸(山側)には公衆トイレがあります。


 

天神橋から3番目の梅の橋が見えます。

 
 

下流に向かって左側(左岸)にはマンションが建っていますが、

右側(右岸)には建っていないのは、金沢市の条例で卯辰山側には

高い建物を建てることができなくなっているからです。

つまり、浅野川が境界線となっているわけです。

 

梅の橋です。

この写真のように左岸側の道を歩いてはいけません。

右岸側の道を梅の橋まで歩きましょう。

 

B”梅の橋”(ライトアップ)

”梅の橋”は昔の雰囲気が漂う風情のある橋です。

金沢のもう1つの大きな川の犀川には”桜橋”がありますが、

”梅の橋”は”桜”に対抗して”梅”と名づけられたようです。

確かに犀川には桜が、浅野川には梅が似合うように感じます。

橋の欄干が木で作られている風情のある橋で、特に夜ライトアップされると素敵です。

小説の舞台や映画のロケ地になっています。

歩行者と自転車専用の橋で、車は通れません。

 

梅の橋は1910年(明治43年)に地元有志の寄付によって作られた橋ですが、

1922年(大正11年)と1953年(昭和28年)の浅野川水害で2回流失しました。

1953年の水害では金沢市は梅の橋の再建を断念しましたが、

金沢市民からの強い要望で復元することを決め、1978年(昭和53年)に

現在の梅の橋が開通しました。

 
 

橋の欄干は木製ですが、昔と違って下の基礎部分はコンクリート製です。

 

梅の橋の下から見えるのはさっき渡った天神橋です。

 
 

”梅の橋”の上から見た四番目の橋の”浅野川大橋”です。

 
 

C浅野川大橋(ライトアップ)

七つの橋の中で一番大きな橋で、その歴史は江戸時代に遡ります。

1594年、前田利家によって架けられました。

昔、参勤交代の時はこの橋を通りました。

現在の橋は1922年(昭和3年)に架けられ、1988年(昭和63年)に

大正ロマン風に改修されました。

多くの観光客さんで賑わうメインストリートになっています。

橋の右岸側にひがし茶屋街、左岸に主計町(かぞえまち)茶屋街があります。

 
 
 
 

橋の灯りは電灯ではなく「ガス灯」です。

ガス灯は橋だけでなく、この辺り一帯に設置されています。

トイレに行きたい人は、橋を渡ってから

交番近くの川沿いに公衆トイレがあります。

 
 
 

浅野川大橋から見た次の五番目の橋 ”中の橋”

橋を渡ったら、川のすぐ横にコインランドリーがあるので

その横の道を川沿いに歩きます。

 
 

中の橋まで情緒ある道を歩きます。

 
 




D中の橋(ライトアップ)

橋げたが水に写って面白い”中の橋”です。

江戸時代初期の1673年に住民が「一文橋」として有料で架けたのが始まりです。

浅野川の橋の中で中央に位置していたので、中の橋と名づけられました。

1975年(昭和50年)の大水害で流れた後に再建されました。

中の橋も、梅の橋と同様に、欄干が木で作られている歩行者と自転車専用橋です。

この橋は金沢の小説家、泉鏡花の小説「化鳥 けちょう」の舞台になった橋です。

昔、橋を渡る時に、一文払ったことから、一文橋とも呼ばれました。

この小説の中では、橋銭(通行料)で暮らす母子が描かれています。


図書館から泉鏡花の作品を絵本にした「化鳥 けちょう」を借りてきました。

中川 学さんの絵がとても美しくて好きです。




私(廉)と母(母様)は橋を渡る人から通行料をとって暮らしていた。

ある雨の日に廉は橋を渡る人を見ている。

「おもいろいな、愉快だな、お天気が悪くて外で遊べなくってもいいや。

笠を着て、蓑を着て、雨の降る中をびしょびしょに濡れながら、橋の上を渡っていくのは猪だ。…」
 

 

「つりをしてますのは、ね、先生。

あれは人間じゃあない。きのこなんで……」


 

  
 
 

こっち側から渡ってはいけません。

下流に向かって右岸から左岸です。

浅野川大橋と逆で、橋を渡ってから、左岸にトイレがあります。

 
 

欄干からさっき渡った”浅野川大橋”が見えました。

 
 

欄干から見える浅野川下流側の透き通るような水と街並みが美しい。

 
 

貴船(きぶね)は予約がとれない割烹として有名です。

一回も行ったことがありません。



参考までに、貴船を昼間見るとこんな感じで、夜とは全然違ってシラーっとします。

夜行くのをおすすめします。


 
 

E小橋 ゴールまでもうちょっと!

全長35mととても短い橋で、名前の通り小さな橋ですが、

江戸時代、小橋は犀川大橋、浅野川大橋と共に金沢の三ツ橋と呼ばれていました。

17世紀前半には存在していたと考えられ、浅野川から水を取水していました。

小橋用水は農業用水や水車を回すために使われ、地域の生活に溶け込んでいました。

昔は各家の前に階段があり、洗濯場として用水が利用されていました。

現在も小橋用水は防火・消雪用として重要な役割を担っています。

 
 
 

柳の木が風流ですが、幽霊が出そうです。

 


ここまで来る途中、何回も河原でサギを見ました(昼間来た時に撮影)

こちらは白いコサギ。

 

灰色っぽい大きなサギはアオサギだと思います。

 

小橋のすぐ横の大きな木にたくさんのサギがとまっていて

”サギの木”になっていました!!!

サギの木、初めて見ました!

 
 

ネットで調べてみたら、サギは繁殖期に入ると大木にたくさんの巣を作ります。

この大木の場合、浅野川のすぐ上なのでエサの魚に困りません。


 

サギは繁殖期の春先から夏の終わりにかけて集団で巣を作ります。

大きな木なら、巣をいくつも作れ、集団でコロニーが作りやすいのです。

 

薄暮れ時の大木に、まるで白い花が咲いているかのようです。

多分、昼間は川でエサを食べて、夜になるとベッドに戻ってくるんでしょうね。

ここで外国人観光客2?3人がサギの木の写真を撮っているのを見ました。

この木、もしかして外国人観光客の間で有名なのかも……と思いました。

今回、リサーチに来て思いましたが、夕方以降、浅野川界隈で、日本人観光客はほとんど

見かけませんでしたが、外国人観光客は何人も見ました。

夕暮れ時がとても美しいのに、もったいないですね。

昼間と全然違うんです。

 

最初のうちは10羽くらいでも、生まれたサギが成長し、

翌年、里帰りすることを繰り返し、どんどん増えていきます。


 
 

こんな美しいサギの木なんですが、ご近所の方々は困っていらっしゃるかもしれません。

朝晩の鳴き声はすさまじく、洗濯物や車に白いフンをされるでしょう。

またサギが獲って来た魚が巣から落ちて悪臭を放ちます。

 

鳥獣保護法では、野鳥や自然動物などの捕獲や殺傷を禁じており、

巣を作ってしまった木を切ることはできません。

もし木を切るのなら、ヒナが巣だった後のタイミングしかありません。


 

この写真、何も知らなかったらクリスマスのイルミネーションですよね!

私の娘もイルミネーションと間違えました。

 

常盤橋から小橋までずっと河原を歩けましたが、

小橋から最後の昌永橋まではしばらく普通の道を歩かなければなりません。

元々は河原の道があったんですが、閉鎖されているので

ちょっとわかりにくいんですが、川と平行の道を歩きます。

夜だと少しわかりにくいので、昼間歩いてきた時の写真です。





小橋を左岸から右岸に向かって渡り、そのまままっすぐに歩きます。



やまざきさんというお店の角を左に曲がります。

 

この道が川と平行になっている道です。



有名な”俵屋の飴”(創業天保元年190年前)の前を通ります。



大きな通りに出ます。



左に見える橋は渡らずに、正面のケーキ屋さんの前の

横断歩道を渡ります。

左に見える橋は”彦三大橋”でこの橋はノーカウントです

彦三大橋は七つ橋の一つではありませんので、要注意です。


小橋と昌永橋の間にある橋で、車がよく通る橋です。

うっかり渡ってしまうと、八つ橋渡りになってしまいますよ。



川と平行の道です。




左に曲がると、川の見える道があるのでここを曲がります。



向こうに見えるのが七つ目の昌永橋です。

 
 

F昌永橋(七つ橋の1番下流の橋) ゴールです!

最初に架けられたのは1900年(明治33年)のことでした。

小橋によく似た橋ですが、部材を三角形に組み合わせたトラス構造の橋です。

この構造は三角形なので、非常に力学的に安定しており、外からの力に強く、

変形しにくく、軽くて丈夫なのが特徴で東京タワーにも使われている構造です。

 
 
 

オウム真理教後援団体 「山田らの集団」は解散せよ!

というのぼりがありました。

こんなのぼりがあるということは地下鉄サリン事件から30年経った今でも、

昌永町で活動しているんですね。知りませんでした。

山田美沙子という人が代表者なので、便宜上、公安がつけた名前だそうです。

時々、立ち入り検査があって、麻原彰晃の写真や、修行に使う教材が見つかっているそうです。


 
 
 

七つ橋渡りはここで終了します。

距離は約2km、ゆっくり歩いて50分、約5000歩歩きました。

さあ、本番ではどうなるでしょうか?

 

本番前に………

三島由紀夫の短編小説 「橋づくし」を借りてきて読んでみました。

金沢の七つ橋渡りをモチーフにして書かれているようです。

旧暦の8月15日の満月の夜に、4人の女たちが、

東京の銀座界隈の七つの橋を渡り、願掛けをするという物語です。

4人のうち、誰が最後まで橋を渡れるか……

途中笑える話なんですが、意外な結末で終わります。

何が笑えるかというと、「無言でいること」がいかに難しいかという所です。



「橋づくし」から一部書きぬいてみました。


……これから口を利けなくなるので、三人はいっせいにかしましく喋りだめをした。……

……第五の橋で……小弓の身に不運が起きた。

むこうから…洗い髪の女が「ちょいと小弓さん、小弓さんじゃないの」

小弓は目を伏せて答えない。……



……第七の橋で満佐子は若い警官に呼びかけられた。

「何をしてるんです。今時分こんなところで」

満佐子は今口をきいてはおしまいだと思うので、答えることができない。……

………「返事をしろ、返事を」警官の言葉は荒くなった。

ともあれ橋を大急ぎで渡ってから釈明しようと決めた満佐子はいきなり駆け出した。

橋の中ほどで追いついた警官に腕をつかまれた。「逃げる気か」

「逃げるなんてひどいわよ。そんなに腕を握っちゃ痛い!」

満佐子は思わずそう叫んだ。そして自分の願い事が破れたのを知った。

 
七つ橋渡りは実は歌にも歌われています。

城之内早苗さん(元おニャン子クラブ)の「七つ橋渡り」です。


無言で渡り願い事、七つの橋を振り向かず、

常盤橋から不器用なりの背を押す背音は浅野川

生きがいずっとあなただけ、離れ離れを耐えてます

古都に伝わる習わしで、逢える日祈る七つ橋渡り

昌永橋を七つ目に、せめて連れ添うおぼろ月

きっと二人で幸せのお礼に来ます七つ橋渡り



五木寛之 新金沢小景より
(図書館で借りてきました)

深夜に無言のまま、黒い影法師がずうっとめぐって歩く、誰も口をきかない…。

これは、何かぞくぞくするような好奇心を小説家としての僕に与えました。

春と秋の彼岸の中日、真夜中の12時になるととこからともなくやって来た人たちが

浅野川に架かる橋を渡り始める。数珠を持った人々が、沈黙の行列となって、

常盤橋、天神橋、梅の橋、浅野川大橋、中の橋、小橋、昌永橋を渡りきる。

仏教では、この世を此岸、あの世を彼岸と呼び、彼岸には阿弥陀如来の極楽浄土があると

信じられている。彼岸の中日に現世と来世の堺である川を渡ることには、

特別な意味が込められているのだ。

富山の立山では、古い時代の彼岸の中日、女性が白い布の上を歩く布橋儀礼が行われる。

女人禁制の立山に登れない女性たちが、極楽往生を体験するために考えられたものだという。

さらに七つという数に五木寛之は中国の道教の流れがあると考える。

中国南部のミャオ族には「子どもはあの世から七つの橋を渡ってくる」という

言い伝えが残るそうだ。

彼岸の中日、日常をかけ離れた世界が女川を覆うー多くの言葉が行き交う

多弁な現代社会の裂け目にひそむ沈黙の光景である。


 
 
 
ここから、本番の七つ橋渡りとなります。


2025年9月23日午前0時(9月22日の晩なので注意)


七つ橋渡りの持ち物の準備

@お数珠(なければ、必要ない)

A新品の下着(パンツ)

Bスマートフォーン(歩数と距離を計る・非常時の連絡)

Cたすき掛けかばん または リュック

   水筒かペットボトル(弁当忘れても水筒忘れるな!)

   折り畳み傘(弁当忘れても傘忘れるな!ー金沢のことわざより)
     降水確率低い時はいりません。
 

  @常盤橋  午前0時スタート

自宅を22日の午後11時に出発しました。

私たちの家は金沢郊外の田んぼの真ん中にある団地なので街中までは家の車で行きました。

最終地点である”昌永橋”の1つ下流の”中島大橋”近くの駐車場に車を停めました。

それから出発地点の常盤橋まで老人なので歩いていかずに、タクシーに乗って行きました。

帰りは昌永橋から歩いて車をとめてある駐車場に行き、車で自宅に帰りました。


 

橋の向こう側(左岸)には8人くらいの人たちがいらっしゃいました。

それに対して橋のこっち側(右岸 卯辰山側)には私たち2人を含め5人でした。

どっち側から渡っても構わないのです。

こっち側から渡る方々3人とお話しました。

渡る前なので、喋っても全然大丈夫なので、
”喋りだめ”をしたわけです。

三島由紀夫の小説と同じです。

喋りだめをして本当によかったです。いろいろな情報を聞くことができました。

3人のうちのお1人は今回2回目の七つ橋渡りだったのでした。

前に参加した時は案内人みたいな人に連れていってもらったそうで、

歩き方がとても速くてしんどかったそうです。

だから今回はゆっくりマイペースで行きたいからとお友達といらっしゃいました。

例の新しい白いパンツも履かれて、お数珠も持ち、トイレも行きたくならないように

水分控えて臨まれていました。パーフェクトですね。

ただ、とても驚いたのは橋から橋へと歩く時に、河原を歩かずに、

普通の道路を歩くということでした。

私たち2人がなるべく河原を歩くと言ったら、驚いていらっしゃいました。

河原を歩いた方がきれいなのに……ドボンと川に落ちるかもというスリルも味わいたい老人でした。

 
 

さあ、午前0時(9月23日彼岸の中日のスタート)になりました。

出発です!

橋の渡り始めと渡り終わりには手を合わせて合掌して渡ります。

ここで疑問がわきました。

振り向いてはいけないのに、今、渡った橋の方を

振り向いて合掌するのはOKなのか?ということです。

この点について、誰か知りませんか?

ご存じの方がいらっしゃったら、教えて下さい。お願いします。

 
 
 
 
 
 

やけくそばばあは、家のタンスにあった白装束を着ていきました。

本当は”白鉢巻き”まで用意してあったのですが、他の人に見られたら

恥ずかしくなったのでこっそりかばんにしまいました。

 
 

常盤橋を渡っていますが、実は渡り終わりで合掌するのをコロッと忘れてしまっていました。

あと戻りできないので、そのまま行きました。

几帳面な性格なもんで、何か気持ち悪いっていうか、何ていうか……

 
 

常盤橋を渡ってすぐに河原に降りる階段があり、きれいな景色が楽しめる河原を歩きました。

向こうに見えてきたのは次の天神橋です。



他の人たちのように街中を歩かなくてほんとによかったと思いました。

最初のうちは懐中電灯を照らしていましたが、そのうち目が慣れてきて

照らさなくても歩けるようになりました。

 
  A天神橋  0:12着
 




天神橋を渡った右岸(卯辰山側)にトイレがあるので

念のため、入っておきました。じじばばなので……。

 
 

天神橋の右岸側(卯辰山側)から梅の橋までは河原の道がないので、

仕方なく街中を歩いて梅の橋へと向かいました。

実はリサーチの時に、うっかり左岸の川沿いの道を歩いてしまったので

天神橋から梅の橋への街中の歩き方を調べてありませんでした。

あじゃー……です。

方向音痴なので、やけくそじじいとこっちかなあっちかな…と相談しながら

行きたかったのですが、”無言修行”なので仕方なく当てづっぽうで歩いたら

うまいこと梅の橋まで行けたのでホッとしました。

後戻りできるのなら、道に迷っても構わないのですが、

引き返せないので結構緊張しました。

 
  B梅の橋  0:22着
 

梅の橋を渡っています。

 
 

常盤橋でコロッと忘れた渡り終わりの合掌、梅の橋では忘れませんでした。

 
 

梅の橋から一番大きな浅野川大橋へときれいな河原の道を歩いています。

もうちょっとです。

 
  C浅野川大橋  0:30着
 

浅野川大橋を渡る前に合掌。

 
 
 


橋を渡ったあと、川沿いの道に行くためには横断歩道を渡らなければなりません。

実を言うと、白装束で横断歩道を渡るのは恥ずかしかった……。

昔、明治や大正の時代には多分横断歩道なんてなかったことでしょうね。

車がほとんど走ってなかったですから。


 
 
 D中の橋  0:37着 
 

中の橋を渡る前に合掌。

 
 

やはり、浅野川大橋よりも中の橋は情緒あり。



あの世へと旅立つやけくそばばあでした。

 
 

中の橋から小橋へと川沿いの道を歩きます。



川沿いの道にあったミニミニ公園でブランコをする怪しいばばあ。



調子にのってすべり台までしている。

 
 E小橋  0:45着 
 
 


先日、リサーチに来た時は夕方でしたが、今回は真夜中で

サギたちはどうしているのかなと気になっていました。

すると夕方と同じく、木にとまっているではないですか!!!

あんな姿勢でよく眠れるものです。落ちないのでしょうか?

やっぱり布団で眠れる人間でよかったと思いました。


 
 
 

小橋を渡ったら、昌永橋までは川沿いの道を歩けないので

町の中を歩かなければなりません。

でも昼間あらかじめフィールドワークしてあったので簡単でした。



ここを左に曲がります。

 
 

横断歩道を渡る時にまで合掌しているやけくそばばあ。

何も知らない人から見たら、車に飛び込み自殺するようです。




飴の俵屋前を通ります。

 
 Fゴールの昌永橋  0:58着  




小橋から昌永橋には、元々は河原を歩けたんですが、今は歩けません。

 
 

昌永橋を渡る前に合掌していますが、

この時の頭の中は
「ああ、ここを渡ったらやけくそじじいと喋れる!!!」でした。

この七つ橋渡りで一番つらかったのは”無言”という修行だったのでした。

出発地点の常盤橋でお話した女性によると、前に参加した時に、

知り合いのお店の人に偶然会って、話しかけられて、とても困ったそうです。

私は知り合いには誰にも会わなかったし、三島由紀夫の小説のように

おまわりさんにも職務質問されませんでしたが

同行者のやけくそじじいと話せなかったことが、かなり困りました。

ところで、口に出す言葉はだめでも、ジェスチャーはいいのでしょうか?

でも厳密に言えば、ジャスチャー(ボディーランゲッジ)も言葉でしょう。

それこそ筆談だってだめでしょう。

 
 
 
 

ゴールの昌永橋まで渡り切りました!

スマホの歩数計では約4000歩、2,7km、時速5km、1時間でした。

この合掌直後、10年しゃべってない人の様に、

ずっとやけくそじじいにしゃべりまくりました。

人間喋らないと大変なことになると私はこの日、実感しました。

家庭内別居、絶対無理。

「無言でいることがいかにむずかしいか」

という三島由紀夫の小説のテーマがよくわかりました。

帰ってからはパンツを7日間毎日洗って、紙に包んで水引きかけて、

いつのことかわかりませんが棺桶に入れてもらいます。



23日・24日・25日・26日・27日・28日・29日と

7日間洗って干して……半紙に包んでネットで印刷した水引きをかけました。



これでいつ死んでも大丈夫!!!

棺桶に入れてもらいます。


七つ橋渡りはインスタにもあげています。

もし何かありましたら、下記のインスタまでご連絡下さい。


https://www.instagram.com/yakekusojijiisyashin/





 
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